他人は「孤独」と言うけれど・・・
唐突で恐縮だが、筆者は「一人っ子」である。小さな時、周囲から「ご兄弟は?」と聞かれ、「いません」と答えると、大概「さみしくない?」とさらにたずねられるか、そのような言葉を「視線」で浴びせられるかのいずれかであった。
確かに「人恋しい」と思ったことは、何度もある。常に同年代の人間が近くにいる「兄弟持ち」より、そのような人間がいない「一人っ子」の方が、人恋しさを抱え込む時間は長かったと言えるかもしれない。
しかし、この「人恋しい」気持ちが「孤独感」であったかと言われると、私はやや違うと思う。「孤独」という言葉が内包する、若干の「みじめさ」は、少なくとも筆者の場合には全くなかったからだ。
ゴッホの「孤独さ」への違和感
だから、「ゴッホは孤独であった」と言われると、私は「あなたは孤独だ」と言われるのと同じような違和感を抱いてしまうのである。
(引用)彼の孤独は、セザンヌやゴーギャンの場合のように選び取られたものではなく、強制されたものであった。他人に語りかけたいと強く望みながら、絶えず拒否されつづけた男、それがヴァン・ゴッホであった。
(高階秀爾、ゴッホの眼、青土社、2005、9)
確かに、ゴッホが画家になる前には、伝導師として炭鉱夫たちに拒絶されたり、娼婦に愛情を裏切られたりしている。
27歳で画家になってからも、「南仏のアトリエ」という「画家たちのユートピア」をつくろうという呼びかけに、ゴーギャンを除いた誰もが応じることはなかった。
呼びかけに応じたゴーギャンとも、その後に破綻してしまうことは、周知の通りである。
しかし、ゴッホが当時抱いていた感情が「誰からも相手にされない、みじめな孤独感」であったかと言われると、私はやや違うと思う。むしろ「多少の希望を込めて相手を待っている人恋しさ」の方が、私には腑に落ちるのだ。
アルルの寝室

1889年の作品、「アルルの寝室」には、ゴッホが共同制作を行おうとしたアルルで実際に住んでいた「黄色い家」の寝室が描かれている。
彼はこの寝室で、彼の呼びかけに唯一人応じた、ゴーギャンを待っていた。
しかし、ここに私はゴッホの「みじめな孤独感」を、ほとんど感じないのである。むしろ「希望ある人恋しさ」を感じるのだ。
彼は当時、この家に「一人で」生活していた。一人暮らしの人間の寝室に、枕が二つあるのである。椅子も二脚あるのだ。
少なくとも、「この作品を描いた瞬間」に、ゴッホが抱いていたのは「孤独感」ではあるまい。ゴーギャンとの生活に向けた「新たな共同生活への希望」ではなかったか?
私にはどうしても、ゴッホが「孤独でみじめな人間」であったとは思えないのだ。裏切られても裏切られても、常に他人に対して希望を抱き続ける、「たくましく希望溢れる人間像」を、彼の作品を鑑賞する度に感ずるのである。
ゴッホの人生は「孤独」??
確かに、ゴッホは「希望を裏切られ続けた」人間であったかもしれない。そこに「みじめさ」や「悲惨さ」を見出だすことも、完全な筋違いであるとも思わない。
しかし、それのみで一人の人間の人生を「悲劇」としてしまうのには、どうしても抵抗を覚えるのだ。
一人っ子が周囲が思うほどには孤独感を感じていないように、ゴッホ自身もまた、後世の我々が思うほどには孤独感を感じていないように私は思うのである。