
ジャポニスムはなぜ起こったか?

日本人に大人気の印象派。
19世紀末に誕生した印象派が、浮世絵を代表とする日本美術の影響を大きく受け、「ジャポニスム」という芸術運動にまで広がったということは、よく解説本などに書かれている通りである。
では、なぜ19世紀末に突然、日本の美術が注目が集まるようになったのか?単なる偶然だったのか、それとも歴史的な必然だったのか?
ちょっと考えてみたいと思う。
ペリーさんありがとう・・・あなたが引き金を引いたのです。
19世紀末の日本史上の出来事といえば、筆頭にあがるのは1853年の「ペリー来航」であろう。日本の開国への道を決定付けた出来事だ。
実は、ジャポニスムのはじまりは、これ!
考えてみれば当然なのだが、日本からフランスに浮世絵を伝えるのに、伝える側が「鎖国中」では話にならないのである。
日本に来航したペリーは、異国のフランスでジャポニスムが流行する際の引き金を、結果的に引くこととなった。
鎖国が解かれて万博に・・・日仏の美術交流。
19世紀後半、1851年のロンドンを皮切りとして、ヨーロッパでは万国博覧会(万博)が盛んに開催された。
万博では「産業振興」という名のもとに、各国が「近代化」の発展を披露したが、美術においては、それが日仏の交流につながった。
ジャポニスムのきっかけとなったのは、1867年のパリで開かれた万博だ。
日本の江戸幕府、佐賀藩、薩摩藩は、1867年に初めてパリ万博に参加した。このときに伝えられた浮世絵に、当時のパリの画家たちは驚くことになる。
ルネサンス以来、500年以上も用いられてきた「遠近法」は、浮世絵には用いられていなかった。「対象を途中で切断する構図」も、彼らには新鮮で仕方がなかった。
モネの睡蓮・・・パリ万博のおかげです。
影響を受けた画家の代表格は、やはりモネだろう。
晩年の「睡蓮」においては、特に遠近表現において、伝統を覆していた。
レオナルド・ダ・ヴィンチが「最後の晩餐」で用いた遠近法は、モネの「睡蓮」には見当たらない。「消失点」など、はじめからないのだ。
このことは、「最後の晩餐」を鑑賞するときに、視点が一点に集まりやすいのに対して、「睡蓮」を鑑賞するときには、視点があちこち動きやすいことに顕著にあらわれるだろう。


おしまいに
「歴史に『もし』はない」とよく言われる。このことは、ジャポニスムにおいても、「歴史上の必然」といった点では、確かに間違いのないことであると思う。
しかし、である。「もし、ジャポニスムがなかったら、西洋の美術史はどうなっていたか?」を考えることは、「美術史における印象派や浮世絵の重要性」を浮き彫りにする上で、欠かすことのできない作業であろうと、この記事を執筆して私は考えた。
「歴史に『もし』はない。しかし、『もし』を考えると歴史が分かる」というのが、私の考えである。