AE-Salon Webマガジン「alore(アローア)」

大きすぎた真珠~「真珠の耳飾りの少女」(フェルメール)~

「名画」への疑問符

誰もが一度は目にしたであろう、この「名画」。

ヨハネス・フェルメール《真珠の耳飾りの少女》1681年

「少女の瞳がきれい」、「ターバンが異国的」、「フェルメール・ブルーが見事」など、たくさんの賞賛の声が聞こえてきそうである。

ただ、この作品に私はひとつの「疑問」がある。それが今回のテーマだ。

 2つの「主役」

この作品の鑑賞者に「作品の何に最も目を奪われたか?」と訊いてみたとする。

ある人は「少女」と答えるかもしれない。

体は横に向けながら、顔をこちらに見せ、瞳がきれいで、青いターバンを巻き、画面の相当部分を占めている、この「少女」。

一時期、「モデルは誰か?」と話題になったことも、この「少女」の魅力の一端を物語っているだろう。

しかし、その一方で「真珠」と答える鑑賞者も少なからずいると、私は思う。

銀色で、こちら側に神秘的な光を放ちながら、「少女」を引き立たせている、この「真珠」。

見方によっては、「少女」よりも大きな存在感を持っているとも言えるだろう。

ただ、今回の「疑問」は、その「どちらかのみ」へのものではない。

不釣り合いな「主役」たち

今回、私が「疑問符」を打ちたいのは、これら2つの「主役」の「バランス」である。

どう見ても「真珠」が「少女」の顔に比べて大きすぎるのだ。

こんなにも大きな真珠を耳につけて、これほどまでに神秘的な表情をするのは、現実的に不可能であろう。

市民階級が台頭し、絵画に「現実性」を求めた17世紀のオランダ出身のフェルメールは、なぜ、このような「現実離れ」した作品を描いたのか?

確かに、この作品は、実在したモデルを描いたものではなく、「頭部の習作(トローニー)」であるとも言われている。それにしても、である。なぜ、市民階級が喜びそうな「もっと現実味の溢れる」作品にしなかったのであろうか?

「少女」のようになってはいけない?

1つの仮説として考えられるのは、「フェルメールは、この作品を通して、世俗的な欲に溺れることを戒めた」ということである。

オランダはプロテスタントの国。虚飾などの、世俗的な欲に走ることを自戒し、地に足をつけた生活を送ることを尊ぶ。もし、その「逆」がこの「少女」であり、「真珠」であったとしたら・・・。

「真珠」が「虚飾の象徴」だとすると、「少女」は「虚飾に溺れた人間の象徴」ということになる。

つまり、「この少女のように虚飾に溺れることのないように」という、「戒めのメッセージ」こそが、フェルメールがこの作品に込めた本意ではなかったか?

そして、その「メッセージ」を伝えるために、どうしても「少女」と「真珠」の存在感を同じにする必要があったのではないだろうか?

だからこそ、結果的に、2つの「主役」は、大きさが不釣り合いになった。

おしまいに

誰もが賞賛する、この作品。私も大好きである。

大好きだからこそ、「もっとこの作品のことを考えてみたい」と思った。

決して「難癖」をつけようとして、「疑問符」を打ったのではない。

むしろ、「より大きな賞賛」を、この作品に送りたかったのだ。

フェルメールの残したメッセージは、私から見ると異常にも思える「現代人の貪欲さ」への警鐘にもなり得るのかもしれない。

この記事のライター

aloreライターmilkhoppy
<出身>
仙台生まれの東京・川崎育ち。

<所有資格>
アートエバンジェリスト、美術検定2級、教員免許。
 
<意気込み>
「正確なインプットと分かりやすいアウトプット」を、常に心がけ、頑張りたいと思います。
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