
私も「図工嫌い」
小さな頃から手先が不器用で、図画工作の授業のたびに暗い気持ちになっていた私。通知表をもらうたび、「自分にはアートなんて無縁なのだ」と強く思っていた。
そんな私がアート好きになったのは、20代半ばのこと。「まさか自分が・・・」と、39歳の今でも思う。
初めて行った美術館は、穂高の安曇野ジャンセン美術館。電車の待ち時間を潰すために、タクシーの運転手さんにすすめられて、何となく立ち寄った。しかし、そこで私が作品から得た感動は、それまで味わったことのないものだった。
「落ち着く」とも、「興奮する」とも、「臨場感がある」とも違ったのだ。
帰りの電車の中には、購入した画集を3時間も夢中になって見ている私がいた。
「数値化」できないアートの魅力
普段は、会社員をしている私。
会社にいると、「何でも数字で表す」ことに固執しがちだ。それは、私個人に限ったことではない。「数値化がよい」という風潮は、昨今強まるばかりである。「全ての仕事を数値化しよう!」という流れに違和感を覚えるのは、おそらく私だけではないだろう。
そんなときこそ「アートの魅力」が光ってくる。
アートの魅力は、決して「数値化」することが出来ない。「作品の値段が数値であり、価値ではないのか?」という声が聞こえてきそうだが、高値がついた作品が本当にいい作品かどうかについて、私は懐疑的だ。
理由は簡単である。
アートの良さは「千差万別」なのだ。誰かが高値をつけたからといって、それと同じだけの価値を、他の人が見出せるかというと、答えは間違いなく、否である。
絵画ひとつとっても、それは明らかだ。
「落ち着く絵」が好きな人もいるだろう。「自分を鼓舞するような絵」を好む人もいるかもしれない。「華やかな絵」が好みの人もいれば、「地味な絵」に良さを見出す人も、間違いなくいると思う。
そんな「バラバラ」な好みを、「値段」というたった一つの軸だけで反映出来るわけがない。
優劣のない世界は、きれいごと?
数値化された結果には、必ず大小関係があり、優劣がつく。
でも、アートの世界にそれはない。誰の好みも等しく尊重される。
数値化できない「魅力」とは、優劣をつけられることのない、誰もが尊重される「魅力」である。
「きれいごと」だと一蹴されるかも知れない。でも、作品の好みが千差万別である以上、そこに一つの軸で優劣をつけることなど、不可能なのだ。そして、優劣を数値化できないからこそ生まれる多様性や、尊重される個性は、必ずある。
たとえ、学校の図工や美術の授業で「数値化された」悪成績をつけられた経験がある人々でも、アートを通じて「数値のない」、「誰もが尊重される」世界を味わうことは、もちろん可能なのだ。
おしまいに
「図工嫌いの大人」に向けて「アートの魅力」を説明するなんて、「馬鹿ではないか?」と笑われるかもしれない。
しかし、最も「アートから足を背けていそうな人」にこそ、最も「アートの魅力」を知ってもらいたいのだ。その一心で、私はこの記事を書いた。
たった一度でいい。騙されたと思って、美術館に行ってみないか?普段の生活では味わえない世界や価値観を味わえること、請け合いである。