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知らない人物の肖像画で感動するのはなぜか?

知らない人物の肖像画で感動するのはなぜか?

シャセリオー展の帰りに考えた

GW直前の週末のこと。まだ4月だというのにやけに強い日差しと、毎度お馴染みの上野の人混みを疎ましく思いながら、私は国立西洋美術館を後にした。

鑑賞したシャセリオー展は、大満足だった。表情の描写が非常に巧く、どの作品も表情をみただけで、その人物の内面が読み取れた。一緒に展示されていたモローは、人物のしぐさで内面を描写している印象を受けたが、シャセリオーは表情で内面を描写している感があり、その対比も非常に興味深かった。

肖像画への疑問

しかし、どうしても腑に落ちない点が一つだけあった。シャセリオー展では、肖像画が非常に多く展示されていたのだが、自画像を除いて、画中に描かれている人物を、私は誰一人知らなかったのである。それなのに、この展覧会で大きな感動を受けたのは、自分でも理由がよく分からなかった。

実は以前クラーナハ展を鑑賞したときにも、私は同じ疑問を持った。クラーナハ展も肖像画が非常に多く出品されていた。しかし、私はキャプション以外にその人物を知る術はなかった。それでも、大きな充実感を得られたのを今でも覚えている。

肖像画の面白さとは?

肖像画を鑑賞するとき、私が真っ先に考えることは「誰の肖像か?」ということである。自画像ならばこのハードルは、もちろん容易に越えられる。しかし、それ以外の場合は、シャセリオー展でもクラーナハ展でも、他の展覧会でも、作品のキャプションに頼るしか、手段はない。

それでも、自分が肖像画から大きな感動を覚えることがあるのはなぜだろうか?

自身が肖像画に感動するとき、おそらくそれは、画中の人物の「内面」が分かったときであろう。

必ずしも美しい内面である必要はない。ずるさ、欲深さ、妖しさ、危うさ、はかなさ・・・何でもよいのである。その人物が誰で、いかなる時代を生きたかは、キャプションが教えてくれる。しかし、このような内面は「自力」で読み取るしかない。

もちろん、読み取ったものが「正解」かどうかなど分からない。その人物に会ったことがないのだから。ただ、それでもいいのだ。どんな形でもいいから、「描かれている人物が何者なのか?」という問いへの答えが導き出せた瞬間、自分のなかで満足感が生まれる。肖像画の多い展覧会の場合には、それが積み重なって、充実感となるのだと思う。

クラーナハ展でもシャセリオー展でも、私が覚えた感動は、ほぼ間違いなく、この「充実感」だったのだ。

おしまいに

「誰だか分からない人物の肖像画なんて何が面白いのか」と、疑問に思う人がいてももっともだと思う。しかし、そこで拒絶をすることなく、「どんな人物なのか?」と興味を持つこと。そこから肖像画の面白さが生まれてくるのではないだろうか?

今度はどんな内面を持った人物に会えるだろうか?今から楽しみである。

この記事のライター

aloreライターmilkhoppy
<出身>
仙台生まれの東京・川崎育ち。

<所有資格>
アートエバンジェリスト、美術検定2級、教員免許。
 
<意気込み>
「正確なインプットと分かりやすいアウトプット」を、常に心がけ、頑張りたいと思います。
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