
ここではない「どこか」
「隣の芝は青い」とは上手く言ったものだ。でも「こちらの芝は枯れている」と思ったことはないだろうか?
そんなとき、私は「ここではないどこか」に思いを馳せる。
ゴッホにとっての日本は、そんな「どこか」だったのではないだろうか?
ゴッホの作品と日本の相互影響がよくわかる展覧会
1853年にオランダで生まれ、1890年にパリ郊外のオーヴェール=シュル=オワーズで亡くなった、フィンセント・ファン・ゴッホ。
彼は、晩年において、当時の日本で流行していた浮世絵などから、独特な「日本イメージ」を構築し、それともに、従来の西洋絵画には見られなかった、日本絵画の特徴を自身の画風に取り入れていった。
彼が取り入れた、「日本絵画の特徴」とは何だったのか、そして、なぜ彼は日本に魅せられたのか。
第1部 ファン・ゴッホのジャポニスム
1886年2月末のこと、ファン・ゴッホは、突然アントウェルペンから、弟テオのいるパリへとやって来た。
ここで彼が出会った最も重要なものは、「印象派」と「浮世絵版画」であろう。彼は、印象派の技法からは、明るい色彩を、浮世絵の技法からは、日本美術特有の構図やモティーフなどを、自身の作品に取り込んでいった。

浮世絵への関心が非常に強かったファン・ゴッホは、明るい色彩の油彩で、浮世絵を模写した作品を残している。
これは、その作品のうちの1点で、『パリ・イリュストレ』誌の日本特集号(1886年5月、no.45&46合併号)の表紙の一部を拡大模写したもの。オリジナルは、渓斎英泉による《雲龍打掛の花魁》で、印刷段階で左右が反転したと見られている。

第2部 日本人のファン・ゴッホ巡礼
ファン・ゴッホの死から間もない時期、彼にとっての「ユートピア」だった日本から、多くの日本人がオーヴェールへと赴いた。
生前、ほとんど作品が売れなかったファン・ゴッホに、死後にスポットライトが当たるとは、何とも皮肉な話である。
本展では、佐伯祐三、前田寛治などの視点から、「日本人が見たゴッホの生」に着目している。
生前、ひたすらに「他者」を求めたファン・ゴッホ。
私は、彼が、天国でようやく「人肌」に触れることが出来たのだと思いたい。
おしまいに
本展では、作品の質や量に圧倒されることは間違いない。しかし、それだけで終わってしまってはもったいない。
画家になる前から、裏切られても裏切られても、「人間」を求めたゴッホ。
彼にとっての「日本」とは、彼が親しく交わることのできる「人間」が、たった一人でもよいから存在する「ユートピア」だったのではなかったか?
フランスでその「希望」が叶わなかったゴッホにとって、日本の「芝」はさぞかし青く見えたことであろう。
いかめしい自画像の「孤高の画家」は、実はかなりの「寂しがり屋」だったのだと、私は思う。
本展の帰り道、ご自身の「ユートピア」に思いを馳せるのも、また味わい深いのではないだろうか?