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天才画家 暁斎とはどんな人か?

天才画家 暁斎とはどんな人か?

2020年の東京オリンピックを控え、国が日本美術をアピールしましょう~って動き出しているのをご存知ですか?
数年後にはきっと東京に外国人が溢れんばかりに訪れるだろうし、国が日本美術を本当に押し出してくるならば、道で自国の文化について質問されちゃうかもしれません。
「I can’t speak English.」で逃げるのも手ですが、「〇〇なら△△時代に活躍した画家だよ。」なんて応えられるとコミュニケーションがとれてちょっと楽しそうではないですか?
そこで、ちょっと渋いイメージの日本美術の中から、天才的な画力を持ちながら、愉快で可愛い絵まで描くことのできる河鍋暁斎についてご紹介したいと思います。

幕末から明治を生きた天才絵師

河鍋暁斎は茨城県古川市で古河藩河鍋右衛門の次男として生まれます。2歳の時に江戸に出てきて御茶ノ水に住んだそうです。3歳の時に初めて写生をしたのが”蛙”であり、ここから彼のカエル好きはスタートしました。
7歳の時に当時武者絵で人気を博していた歌川国芳に入門し、国芳から写生の重要性を学びます。
ある時、暁斎が武士の合戦の様子をどのようにしたら描けるようになるのかを国芳に問うと、「機会があれば喧嘩の現場に行き、投げ飛ばす手足の動きや抵抗する様子、表情をよくみて心に留めなさい」と言われたそうです。感銘を受けた暁斎は江戸中を歩き回り喧嘩や取っ組み合いに熱心に駆けつけたと言います。幼い時からの経験が彼の類まれなる描写力や記憶力を培ったのでしょうね。
9歳頃には、大雨の後に川で生首を発見し、熱心に写生したというのだから、末恐ろしい子どもだったのでしょう・・・。
10歳頃になると、駿河台狩野派の前村洞和愛徳に入門し、洞和が病気になるとその師である狩野洞白陳信に学びます。狩野派の学習方法は【粉本(手本)主義】と言われ、最初は宝珠から始まり、花卉や動物、さらに高度な人物へと進むそうです。生涯卒業出来ない者もいる狩野塾をなんと暁斎は19歳の若さで【洞郁陳之】の名をもらい卒業してしまいます。やっぱり、天才ですね。
その後の暁斎は、写生の大切さを忘れずに、狩野派で学んだ技術だけでなく、土佐派や円山四条派などのいわゆる伝統的な日本画から、浮世絵や琳派、西洋画などのあらゆる画法の研究をしたそうです。
才能があって努力する人だったんですね。

筆禍事件

明治3年の10月6日に事件は起きました。友人が主催する書画会(当時は主催者が有名書画家を招き、料金をとって参加者を集め、参加者は希望の作家に好みのものを書いてもらったそうです)に暁斎は朝早く到着し、すぐにお酒を飲み始めたそうです。書画会が開場になる頃にはすっかり酔っていた暁斎は、風刺の意を込めて政府高官を嘲笑する絵を描き、その事で捕らえられてしまいます。
そもそも思想的背景などなく、サービス精神で描いた暁斎からは絞っても何も出ません。翌年正月に放免されたそうですが、これを機にそれまで【狂斎】と名乗っていたのを、【暁斎】に変えたそうです。
よっぽど懲りたのでしょうね。
ところで、暁斎はとってもお酒好きだったそうです。いろんな文献にもその記録は残っています。
お酒好きの私としては、ちょっと親近感が湧きます。
【猩々暁斎】という画号も使っていました。これってつまり、〈酔っぱらいの狂った猿〉の意味だそうです。なんともユニークで洒落のきいた人なのでしょう・・・。

榮太樓の鴉

明治14年、第二回内国勧業博覧会に暁斎は4点の肉筆画を出しました。
内国勧業博覧会とは日本国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目を育成する目的とした政府主導の博覧会だそうです。
さて、この博覧会に出した作品に『枯木寒鴉図』があります。この作品は、日本画の最高賞である”妙技二等賞牌”受賞しました。これにより、今後暁斎は〈鴉の暁斎〉と呼ばれるほどに有名となり、海外からのオファーが殺到します。
この博覧会は殖産興業の側面が強い為、出品に値段をつける必要がありました。
暁斎は鴉一羽が描かれたこの絵に対し、【金百円】という当時では青山の一等地が買えるくらいの高額な値段をつけます。「多年苦学の価」、つまり研鑽修行の成果として金額を決めたそうです。
当然審査員からは高いというクレームもあったそうなのですが、作品の素晴らしさと心意気に共感した榮太樓主人の細田安兵衛は早々に購入を申込んだそうです。
お菓子の老舗の榮太樓總本舗さんの当時のご主人、江戸っ子で気風が良くて、かっこいいですよね♪
実は後日談があるそうで、百円を手にして暁斎は榮太樓さんに行き、「実際に百円が欲しくてつけたわけではない。面目が施された」と言って返金しに行ったそうです。細田氏もそんな暁斎の態度に喜んで大いにもてなし、「暁斎の廉潔に感じて差し上げる」と言い百円を再度渡したそうです。
このエピソード、とってもかっこいいと思いませんか?

ちなみにこの明治14年には、英国人建築家のジョサイア・コンドルが暁斎に入門します。
工部大学校造家学科教授として働いていたコンドルさんは、東京駅を設計した辰野金吾や迎賓館を設計した片山東熊を育て、自らも鹿鳴館などたくさんの建物を作りました。
暁斎はコンドルに対しとても熱心に指導を行ったそうです。
暁斎はコンドルだけでなく、弟子や師匠をとても大切にしていたという記録が残っています。

晩年の暁斎

明治18年、54歳の時に暁斎は剃髪し引退を表明します。しかしその後も書くことはやめず、【如空】という名を用いて画業を続けたそうです。そして、【猩々暁斎】とういう名もまた使い続けたそうです。
晩年の暁斎は仏画をたくさん描いています。
特に達磨図と観音図は多く、”日課観音”として、観音像を一日一枚描いていたそうです。
描くことが祈りの行為だったのかもしれませんね。
明治22年、58歳の時に胃がんで亡くなります。
フランスの新聞フィガロで日本人で初めて訃報記事が掲載されました。
ジャポニズムに湧く欧米人が、伝統的な日本画から浮世絵など多彩に描きこなす天才の作品を海外にたくさん持ち出しました。暁斎は外国でもとても注目されていたのでしょう。
暁斎は谷中瑞輪寺境内にある蝦蟇の形をしたお墓で眠っています。
やっぱり、蛙が大好きなんですね。

暁斎を見に行こう!

お酒好きでユニークな天才画家、河鍋暁斎についてズラズラと書いてみましたが、結局のところ、百聞は一見に如かずです。
2017年2/27~4/16までならBunkamura ザ・ミュージアムで『これぞ暁斎!』展が開催されています。が、きっとこの記事が出る頃はきっと最終日頃かもしれません・・・。

そこで、【河鍋暁斎記念美術館】のご紹介です。暁斎の曾孫である河鍋楠美さんが館長をされている、自宅を改装されて作った美術館です。暁斎や娘の暁翠の作品がゆっくり見られますし、資料もたくさんあります。最寄り駅はJR西川口駅で、歩くと20分弱程度です。タクシーならワンメーターです。
昨今注目を浴びている河鍋暁斎なので、今後も彼の作品にはどこかで出会えると思います。
力強くて伸びやかな一筆の素晴らしさ、構図やテーマの面白さ、鳥肌が経つ程の圧倒的な画力を是非とも体感してみてください。

この記事のライター

aloreライター柿沼幸恵
アートエバンジェリスト・アートエバンジェリスト協会FBアートレポーター
【アートサプリウォーク】【美味しいごはんdeアートな女子会】のアートイベントや、毎週FBでアート情報ご紹介しています。
《ゆる~いけど、まじめに。》をモットーに、アートを通して日常をちょっとだけ豊かに楽しく過ごせるような活動を行っています。
自由に楽しくアートを向き合えるよう、アートを皆様をつなぐお手伝いをしていきたいと思っています。
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