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イタリア・ルネサンス、ちょっと待った!

イタリア・ルネサンス、ちょっと待った!

 イタリア・ルネサンス時代に「イタリア」はなかった!

今回は当たり前の話から始めたいと思う。古代ギリシア・ローマの次に大概出てくるイタリア・ルネサンス。

「再生」だの、「人間復活」だのと騒ぐ前に、ちょっと冷静に考えてみよう。そもそも14世紀に「イタリア」なんてないのだ。

当時のイタリア半島は、フィレンツェ、ヴェネツィア、ローマ、シエナなど小国に分割された状態だった。

これを「イタリア・ルネサンス」として一くくりにするのは、ちょっと危険なんじゃないかと私は思う。

「イタリア・ルネサンス」の功罪

確かに、14世紀のイタリア半島のにおいて、いずれの小国にも共通して流れていた「思想」は存在する。

それこそが、「古代ギリシア・ローマの再生」であり、「人間復活」なのであろう。これを「リナーシタ」として、現代風に「ルネサンス」とすること自体は、全く間違っていないと思う。

問題は、その受け取られ方である。

何も知らずに解説を読んだ人が、果たして「イタリア・ルネサンスとは、小国ごとに存在していた、当時の思想の共通項に過ぎない」と思えるかどうか。私は、はなはだ疑わしいと思う。

もっと言ってしまえば、そのような受け取られ方をされかねない「解説」を書いた人間にも、大きな責任があると私は思うのだ。

私の「解説書」の読み方

書店で売っている「解説書」が間違っているなどと言う気は、さらさらない。

ただし、字面のみを「鵜呑み」することは危険である。なぜならば、今回のような誤解が生じかねないから。

私は、解説書を読むときには、できる限り「事実」と「推測」を分けて考えるようにしている。至極当たり前のことなのだが、これが意外と重要なのだ。

「ゴッホは37才で孤独な悲劇の一生を終えた」とあったとき、「事実」は「ゴッホが37才で死んだ」ということのみであって、他の「孤独」や「悲劇」は完全に「主観」であり、推測の域を出ない。

この「主観」を「事実」と同一視することが、どれほど危険か、ゴッホの心情を自分に置き換えてみれば容易に想像がつくのではないか?

自分が必死に生きた人生を、他人に「孤独」だの「悲劇」だのと言われたのではたまらない。

おしまいに

芸術に限ったことではないが、「予備知識」と「先入観」の区別は大切だと思う。

歴史を学ぶ意義は、芸術や人間を理解する上での「予備知識」をつけることにある。決して、現代の我々が過去の人物の人生をレッテル張りすることは許されないのだ。

しかし、である。ちょっと難しい言い方をするが、過去の人物の人生や人間を「想像」することには大きな意味があると思う。どんな場合であっても、他者理解は「想像」からスタートするのだから。

いかに、自己完結的な結論を出さずに相手を理解できるか?過去においても現代においても、人間理解はこの点にかかっているのではないかと思う今日この頃である。

この記事のライター

aloreライターmilkhoppy
<出身>
仙台生まれの東京・川崎育ち。

<所有資格>
アートエバンジェリスト、美術検定2級、教員免許。
 
<意気込み>
「正確なインプットと分かりやすいアウトプット」を、常に心がけ、頑張りたいと思います。
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