
作品の「間違い探し」
あらかじめ述べておく。
この作品の「間違い」は「一つ」ではない。
「二つ」である。
それはどこか・・・?
マネと印象派
「近代絵画の父」とも呼ばれるマネは、印象派のモネやドガに大きな影響を与えた画家である。
しかし、彼自身は1874年から8回にわたって続いた「印象派展」には一度も参加していない。
むしろ、その参加を拒み続けた。
父との約束があったからである。
パリの高級官僚の家庭の長男として生まれたマネは、小さな頃から絵を描くのが大好きだった。
そんな彼は、後に画家になることを決意。しかし、彼の父親は頑なにそれを拒否した。
当時のフランスブルジョワ家庭の人間にとって、自分の息子が画家の道を歩むということは考えられなかったからだ。
それでもマネが画家の道を歩めたのは、父が望んだ法律家や海軍兵への適性があまりになかったためである。
父親はしぶしぶ彼の希望を認めざるを得なかった。
ただ、そんな父親は彼に、画家になるに当たって1つの条件を出した。
それは、「画家として世間に名を残す」ということだった。
当時のパリで、画家として出世しようと思えば、「サロン」で成功を収める以外に道はない。
だからこそ、マネは「反サロン」ともいえる「印象派展」への参加を、拒み続けたのだ。
「鏡の前の世界」と「鏡の向こう側の世界」
さて、この作品では、鏡を隔てて二つの世界が描かれている。
まず、「鏡の前の世界」から見てみよう。
画面中央に、女性がうつろな表情を浮かべて立っている。
まるで、感情を失ってしまったかのようだ。
非常に退廃的で暗い空気感が漂う。
彼女の前のカウンターに並べられた洋酒や花や果物からも、どこか空虚さが感じられる。
この世界を支配しているのは、非常に退廃的で暗い空気感である。
一方、「鏡の向こう側の世界」は、どうだろうか?
当時のバーらしく、多くの華やかな紳士淑女が集っている。
漂っているのは、非常に明るく、楽しげな空気感だ。
まるで、彼らの明るい話し声がこちらに届いてくるかのようである。
画面左上には空中ブランコも部分的に見える。
おそらく、集っている人々は、サーカスを明るい会話と共に楽しんでいるのだろう。
ここには、「鏡の前の世界」とは対照的に、明るく華やかな空気が充満している。
しかし、画面右上の女性と紳士の周囲だけは、やや暗い雰囲気が漂っているようだ。
「違い」がつなぐ「二つの世界」
「鏡の前の世界」と「鏡の向こう側の世界」。
本来ならば、左右反転した「同じ世界」が描かれなくてはならないはずだ。
しかし、この作品では、そうなっていない。
「違い」が二つ存在するのだ。
そして、その「違い」こそ、「二つの世界」を結び付ける重要な役割を果たしている。
「一つ目」の違いは、誰の目にも明らかだろう。
女性の位置と、彼女に話しかける紳士の存在である。
ちなみに、この作品で、「両方の世界」に登場するのは、人物に限ればこの女性だけだ。
彼女だけが、「二つの世界」を行き来出来ているのだ。
「二つ目」の違いは、カウンターの一番左に置かれている「赤い瓶」である。
「鏡の前の世界」と「鏡の向こう側の世界」とで、入っている洋酒の量が違うのだ。
「鏡の向こう側の世界」の方が「鏡の前の世界」よりも、明らかに量が少ない。
つまり、描かれている二つの世界は、「同じ時間」のものではない。
時間的には、「鏡の前の世界」が先、「鏡の向こう側の世界」が後、である。
「赤い瓶」が二つの時間をつなぐ役割を果たしているのだ。
「異時同図法」が描くパリの明暗
それでは、異なる時間の光景を一つの作品に収める「異時同図法」を用いて、彼は一体何を描いたのか?
それは、「19世紀末のパリを覆っていた明暗」である。
急速に都市化した当時のパリでは、「華やかな世界」の裏に、売春などが横行する「暗い世界」が存在した。
「鏡の向こう側の世界」で女性に話しかけている紳士も、おそらくは「健全な目的」で会話を楽しんでいるのではあるまい。
マネは、近代都市パリの明部と暗部を、表裏一体の世界として、鏡を用いて一つの作品に仕立て上げた。
時によって、メイドにも売春婦にもなり得る女性を、マネは一見華やかな近代パリのシンボルとして描いたのだ。
おしまいに
華やかな世界の中に暗い世界が存在するのは、この時期のパリに限ったことではあるまい。
しかし、それを「鏡」という小道具を使いながら描き分けたマネの才能には、我々は感服するしかないだろう。