
「不自然」な作品
「印象派の原点」ともいうべき、この作品。
見ていて不自然さを感じないだろうか?
描かれているのは、19世紀末のル・アーブル港の風景。
それなのに・・・。
モネの「印象」の基礎
モネは、1840年11月14日、パリの下町で食料品店の長男として生まれた。
しかし、父親の商売の都合で、彼はまだ5歳の時に、一家でノルマンディ地方(フランス北西部の海沿い)のル・アーヴルに引っ越した。
以後、彼は少年時代の大半をこの町で過ごすこととなる。
少年時代、決して「品行方正な優等生」というタイプではなかった。むしろ、その反対に腕白者であった彼は、よく学校を抜け出しては、外で遊びまわっていたようである。
彼は、後になって、「少年時代に見た太陽や、海や、澄んだ空気が、自分を牢獄と同じもののように思われた学校から解放してくれた」という主旨のことを語っている。
おそらく、ノルマンディでのこの少年時代こそが、彼の自然に対する「印象」の基礎を築いたのだろう。
しかし、その「印象」が、後になって、彼の作品や彼自身を苦しめることになるのは、周知のとおりである。
「近代」と「前近代」の同居
冒頭に述べた通り、《印象・日の出》の舞台は、近代のル・アーブル港だ。
ただ、それにしてはあまりに不自然である。
画面奥には、工場が立ち並ぶ「近代」の風景が、手前には、手漕ぎのボートが行き交う「前近代」の風景が描かれている。
ただ、両者は、いくらなんでも、「時間軸」が違いすぎる。
しかし、見方を変えれば、「一つの作品に二つの時代が同居している」ということも出来よう。
「海」と「太陽」が表す「近代化」とは?
「前近代」と「近代」が同居している《印象・日の出》。
その間にあるのは、大きく広がる「海」のみである。
この作品でモネは、おそらく無意味に「海」を描いてはいない。
「時代の流れ」の象徴として、画面手前から奥へ進む「時間軸」の役割を「海」に持たせている。
そして、「太陽」や「日の出」というタイトルも、この「同居」と無関係ではあるまい。
古い時代から新しい時代への大きな変換を、そして、その新時代に対する大きな希望をこそ、モネは「太陽」にこめたのではないか?
だからこそ、「日の出」なのではないか?
モネが本当に表現したかったのは、「近代」という「新時代の到来」と自身の「大きな希望」であろう。
おしまいに
急速な近代化によって様変わりしていった、当時のル・アーブル港。
モネが、自身の故郷でもあるこの地を描いたのを、私には偶然と思えない。
時代の変化を最も敏感に感じ取れるのは、誰にとってもおそらく故郷であろうからだ。
自分の故郷の大きな変化を目の当たりにしたとき、それに驚き、哀愁を感じながらも、未来への希望を抱くのは、誰しも同じなのだと、私は思う。